茶々の茶のみ話

茶々ののんびり日記です。どうでもいいようなことがつらつら~っと書いてあります。 お茶のみ話感覚で読んでいただけたら嬉しいです♪

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3月13日

私はこの日、震災後初めて泣いた。

それまでずっと泣くのを我慢していたわけではない。津波で大勢の人が犠牲になったのも知っている。胸が痛み、泣きたい気持ちは充分にあった。だけど涙が出て来なかったのだ。

それは窓から外を見た時のことだった。
重たい音をさせて、カーキ色のトラックの列が家の前を走ってゆく。自衛隊のトラックだ。
よく見ると、トラックの前と横に「災害派遣」と書いてある。三重県から来た部隊だった。
その文字を見た時、「ああ、ここは被災地なんだ。被災地になってしまったんだ」と初めて実感した。
その瞬間、涙がぶわっと溢れてきて、同時にいろんな感情が湧き上がってくる。
電気も水も止まってしまった。道路は歪み、電柱は傾き・・・つい2日前までは穏やかな時間が流れていた町が悲惨な姿に変わった。夜は全くの暗闇にのまれ・・・・そして何より、一家の長が東京で足止めを食らっている。
不安で不安で仕方がない。いつ電気はつくの?水は?食べ物は?そして原発はどうなっている・・・?

そういう心細さの中で、国内・海外から続々と救いの手が差し伸べられているのを知った時、それまで出てこなかった涙が一気に溢れ出たのは私だけではない。
それまで気丈に頑張ってきたみんなが同じことを口にした。
人の心の温かさ、人の手のありがたさがこんなに身にしみたことは、それまでなかったかも知れない。
大きな試練の中に放り出された私たちにとって、その存在がどんなに心強かったことか・・・!!と。


その日は早朝5時から水を求めて小学校に並んでいたので、すっかり冷え切って疲れてしまった。おまけに寒さのせいで腰痛もピークに達している。
妹たちの水の容器も一緒に持っていき、先に並んで順番を取っていたのだが、義弟と合流したのは1時間半後のこと。どうやら寝坊したらしい。かなりムカッときたけど、そこは我慢我慢。

私は原発の心配もあって子供たちを二人だけで家に残してきたのだが、もうすぐ水がもらえるあたりで大きな余震が来た。外で立っていても結構大きな揺れと感じるほどだったから、4か5弱くらいはあったと思う。携帯は相変わらず死んでいて連絡が取れないので、なにごともないのを祈る他ない。

やっと水をもらって帰宅した時、私はそれまでついたことのないような大きなため息をついた。

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3月12日 ②

この日の朝、新聞が来た。

薄っぺらい新聞。だけど精いっぱいの新聞。
電気が止まっている中、データを山形まで持っていって発行したそうだ。賞賛すべきジャーナリスト魂だと思う。

ラジオだけでは十分な情報が得られなかったから、新聞で記事を読み。初めて写真を見た時には激しい衝撃を受けた。こんな想像を絶する事態になっていたとは・・・!
だけどまだ涙は出ない。まだ自分たちが置かれた立場がよく飲みこめていなかったのか、それとも信じたくなかったのか。ただ、新聞を前に茫然とするだけ・・・。

横では子供たちが、DSの電池が切れそうだと騒いでいる。
幾度となく「母ちゃん、いつ電気来るのー?」と無邪気に訊いてきた。
(何をこの非常事態に呑気なことを!)と思ったけれど、地震や原発の不安に怯えて泣かれるよりはマシかと思い、「う~ん、4日後か5日後か・・・。電気屋さん頑張ってるから、応援してあげてよ」と適当にあしらっておく。
この原発不安は今後何日も続くわけだが、この子供らしさにかえって救われたと、今になって思う。


この日は日中とても暖かく、だいぶ過ごしやすいのが幸いだった。
夕方、水に不安を感じた私は、子供たちを連れて再び給水に並ぶことにした。

・・・が、ものすごい長蛇の列!!
今度は子供たちが通っている小学校に行ったのだが、広い校庭をぐるっと列が取り囲み、給水できるまで5~6時間はかかりそうな感じだったから、30分ほど並んで断念。翌日早朝にまた来ることにした。
普段は水道からじゃんじゃん使っている水だけど、この時ほど水のありがたみを感じたことはなかった。
人間て、贅沢でわがままな生き物だと、つくづく思う。


日が落ちると、暖かかった日中とは打って変わって、寒さが容赦なく襲ってくる。
灯油があまりないので、ストーブは調理と食事の時だけつけることにした。

家の中も、外の世界も全くの暗闇。
時折、道路を走る車のヘッドライトが一瞬だけ光を投じてくるのが、何よりの慰め。

私と子供たちだけが家にいるのを心配していた旦那は、通信が途絶える直前のメールで「不安があれば実家へ」と言っていた。私も本当ならそうしたかった。せめて夕飯くらいは大勢でとって、不安な気持ちを吹き飛ばしたかった。
でも実家には妹一家が既に来ていて一杯な状態で、地震後の混沌とした空間に私たち3人のいる場所はない。
妹の家は別に何も被害があったわけではなく、義弟もちゃんといたし、水道もここよりずっと早く復旧した。海からも相当遠いので津波の心配も皆無なのだが・・・・何が怖かったのか2週間も実家に居候していた。
父は昔からサバイバル向きであり、何でも一人でこなしてしまうから、別に人手が欲しかったわけでもない。
それどころか妹も義弟もすっかり「お客様」になってしまっていて、最後には父母ともに疲れ切っていた。

そんなわけでこの日も暗闇の中、親子3人で夕飯をとることになった。
前日、帰ってくるはずだった旦那のために作ろうと思って買っていた鶏鍋の材料をムダにしたくなかったから、なけなしの水で野菜を洗って美味しい鶏鍋をたっぷり作った。
みんなで食べたらもっと美味しかったのに・・・と思いながら、寒さの中でハフハフいいながら食べた。

この鶏鍋は翌日の夕飯まで登場する。

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3月12日 ①

幾度となく来る余震と不安のためにほとんど眠れなかったが、それでも明け方少しだけまどろんだらしい。
6時に目が覚めると見慣れない天井が目に入り、いつもの日常ではないことを思い知らされる。
トイレのタンクに水を入れるために起きると、子供たちも一緒に起きてきた。いつでも逃げられるようにと普段着で寝かせていたから、あまりよく眠れなかったらしい。

ところで、今回の震災ではいくつかラッキーなことが重なっていた。
我が家では普段から、お風呂の残り湯は洗う直前に捨てることにしている。あの日も浴槽の7分目くらいまで水が張ってあったので、とりあえず3日分くらいのトイレ用水は確保されていた。
そして震災当日のジャーのご飯。自分がカップ麺が嫌いなものだから非常食として準備していなかったので、冷ご飯でもとても助かった。
ちょうど11日の午前中に財布がカラになってしまったので、銀行で現金をおろしてきていたのもラッキーだった。しばらく銀行が機能しなかったので、これがないといくらお店が早くから開いていても買い物ができない。

朝ごはんにしようと電気の消えた冷蔵庫を覗いてみると、ボトルに作っていたお茶が1本だけ入っていた。
子供たちに昨夜焼いたホットケーキとお茶を準備した後、私は自転車で町の様子を見にいくことにした。とにかく飲料水がなければ困ったことになってしまうから、給水車がどこに来るのか、開いているお店はないかなどの情報を集めなければならない。

前日は子供たちを小学校まで迎えに行き、それっきり外には出なかったので町の様子はわからなかったが、かなり大きなダメージを受けていた。
傾いた電柱、割れた地面。あちこちのマンホールが飛び出しており、1mも道が凹んで水が溜まっているところもある。幸いなことに横揺れだったので倒壊家屋は皆無だったけれど、それでも塀が崩れたり瓦が散乱していたりして危険だ。
お店はどこもやっていない。近くのコンビニにも行ってみたけれど、店内は商品が散乱していて、お店の人もどこからどう手をつけて良いかわからない様子。それでも食料を求めて、店の前には長蛇の列ができていた。
私も並ぼうと思ったけれど、余震が続く中で子供たちを長時間家に残しておくのも心配だったので帰宅した。

帰宅してしばらくすると、町の広報車が給水場所を伝えに回ってきた。どうやら各小学校で給水しているようだ。子供たちの通う小学校が一番近いのだが、ここはいわば町の中心部で住民も多いため、2キロほど離れたお隣の小学校へ行くことに決めた。
宮城県沖地震に備えて百均で買っておいた給水バッグが3つあったので、ホットケーキで朝食を済ませるとすぐに、子供たちと一緒に給水場所へ向かった。

小学校ではすでに長い長い列ができていた。
そして1台きりの給水車はとても小さくて、何人も給水を終えないうちにまた浄水場へ水を補給に行ってしまう。
8時少し前に並んだのが、給水を終えて帰ったのが10時過ぎ。それでもまだ良い方かも知れない。後ろには私たちが来た時の3倍以上の人が並んでいた・・・。

その日は朝からとても暖かくて、抜けるような青空だった。
その澄んだ空を、絶え間なく救助のヘリコプターが海に向かって飛んでいく。
しかしまだ私たちは、津波がどれほど残酷な爪痕を残したのか想像もつかない。映像が見られなかったからだ。
そして福島第一原子力発電所がまずい状態になっていることも、まったく知らなかった・・・。
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3月11日(震災当日)④

夕方6時を回ると、子供たちが「お腹すいた」と夕飯をせがんできた。
金曜日は出張の旦那が帰ってくる日だから、朝いつもより多めにご飯を炊いていて、停電で冷たくはなっていたもののジャーの中にはご飯がたっぷり入っていた。
断水で手も洗えないので、ラップを使っておにぎりを作ることに。素手で塩を振ったり海苔を巻いたりするのに抵抗があったから、ふりかけを振って味付け。
我が家では非常食になるようなものをあまり準備していなかったけれど、魚肉ソーセージが人数分あったので、おにぎりとそれで夕飯の完成。だけどお隣の子供たちはまだ食欲がないと言う。仕方がないので帰る時に持たせることにして、うちの子たちだけ食べさせた。こんな時でもしっかり食欲だけはあるって、ある意味すごいことだと思う。

その間、私は二階から降ろしたストーブに灯油を入れ、使えるかどうか試していたのだが・・・・なぜか着火つまみが動かない。長年使っていなかったものだから、さびてしまったのかも知れない。
でもあれこれいじくっているうち、ふとした拍子に火がついた。少しきついけれど、ちゃんとつまみも動く。
ただ臭い煙がモクモク出てきてしまうので、翌日外で動かしてみることにした。

このストーブは大いに役に立ってくれた。
我が家は電磁調理器なので卓上ガスコンロを出してきてはいたけれど、肝心のカセットガスの買い置きがあまりなかったため、部屋を暖めつつ天板で調理できるストーブは大助かりだ。
ただ、灯油の買い置きもあまりなかったから、食事時以外はつけることができなかったけれども。

お隣が子供たちのお迎えに来たのは、たしか8時頃だったと思う。
ラジオをつけ、ランタンの明かりを小さくしぼって、私が始めたのは大量のホットケーキを焼くことだった。
大量にあったご飯も、子供たちのおにぎりを作ったら自分の食べる分はなくなってしまったし、牛乳が悪くなる前に使ってしまうにはちょうどいい。
余震が来るたびに卓上コンロの火を消しながらの調理だったのでなかなか進まなかったが、大皿に山盛りのホットケーキが完成した。これで2食分くらいにはなるだろう。


夜10時。とうとう携帯電話が圏外になってしまった。
旦那は東京駅で夜を過ごすと言っていた。それが最後のメール・・・。次はいつになったら連絡が取れるのか。

ひっきりなしに来る余震で子供たちはなかなか寝付けなかったようだが、11時を回ってようやく眠りについた。
カーテンを開けて見た景色は、恐ろしいほどの暗闇・・・。そしてラジオでは少しずつ被害の大きさが明らかになっていく。


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3月11日(震災当日)③

30分ほどして、とりあえず背中の痛みと吐き気は落ち着いてきた。ほとんど出るものはなかったけれど、気が動転して胃がひっくり返っていたのだろう。
落ち着いたならいつまでもぐずぐずしている暇はないので、まだ心配顔の子供たちと一緒に片付けに入った。
1階は子供たちの大活躍でほとんど元に戻っていたから、ゴミ袋を持って2階へ上がる。

金魚の水槽の水でびしょ濡れになったズボンを取り換えるために、子供たちを迎えに行く前に一度2階へ上がっていたはずなのに、マンガ本を収納している薄くて低い本棚が全部倒れて廊下いっぱいにマンガ本が散乱していたのを初めて見たような気がした。あのでっかい揺れの後、どれだけ恐怖で頭の中が真っ白になっていたんだろう。
2階でも1階と同じように机や家具が移動していたけれど、天井まである重たい洋服だんす2つが10センチも移動して、壁の電灯のスイッチを破壊していたのには一番びっくりした。

この惨状に絶句する子供たちに、「大丈夫大丈夫。さあ暗くなる前に元に戻そうか」とカラ元気を装ってみたけれど、絶え間なくやってくる余震に私も恐怖心を隠すことができない。
本棚に本を全部戻し終えるまでに3~4回ほど大きな余震があったので、そのたびに広い和室に避難した。


やっと生活空間の片付けが終わった時には、もう外が薄暗くなっていたから、今度は家中の懐中電灯とランタン、乾電池を1階に集める。幸い我が家ではキャンプをするので、電池式ランタンと充分なほどの乾電池はストックしてあった。
でも外の様子からみて電気が一日や二日で復旧するとはとても思えなかったので、暗闇を怖がる子供たちにも我慢してもらうように話をした。

その時、1階和室の外でにぎやかな声がした。お隣の子供たちだ。
みんな大丈夫だったかなと思って窓を開けたら、寒空の下で4人の子供たちが震えていた。
食器棚が倒れて危険なため、片付けが終わるまで外に出されているという。
このままでは風邪をひいてしまうから、入れるようになるまでうちに来るように話したら、子守りをしていた一番上の高校生のお兄ちゃんは片付けに戻り、小6から幼稚園までの3人をうちで預かることになった。

お隣の子供たちがやって来たとたん、うちの子供たちが急にはしゃぎだした。
今までのお兄さんモードはどこへやら、遊び仲間が増えたとばかりに本来の姿になったようだ。頼もしい姿もいいけれど、私としてはいつまでも恐怖感を引きずらず、子供らしい表情に戻ったのを見てすごく安心した。
でもお隣の幼稚園の子は余震が来るたびに恐怖で泣きだし、6年生のお姉ちゃんに抱っこされていた。真ん中の3年生はなかなか胆の据わった子で、うちの子供たちとカルタやオセロに興じはじめた。


日中は日差し暖かい日だったけれど、日が落ちると一気に部屋の中も寒くなる。
停電でヒーターが使えないため、あらかじめ1階に降ろしておいた布団を和室に敷き詰めて子供たちをもぐりこませて暖を取らせることにした。
その時、ふと7年も使っていない石油ストーブがあったことを思い出す。
ちゃんと使えるかどうかはわからないけど、長男を伴って2階へ取りに行った。
もう古かったから捨てようかと思ったこともあったけれど、いつか来ると言われていた宮城県沖地震に備えて取っておいた方がいいと考え直して保管しておいたのだ。
ナイスだ、自分!!
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3月11日(震災当日)②

小学校では、校舎からめいっぱい離れた校庭の隅っこに、子供たちがクラスごとに座って迎えを待っていた。
普段から引き渡し訓練をしているので、それに従って6年生の長男から迎えに行く。

我が家の子供たちは特に怯えている様子はなく、ちょっと安心した。
でも低学年の子や、高学年でも女の子の中には泣いている子もいる。あれだけ揺さぶられたんだから当然だ。
長男の先生にお礼を言って、次は4年生の次男を迎えに行ったのだが・・・・・なぜか次男は半袖だった。
東北の3月はまだまだ寒い。震災後は雪が降ったくらいだから。
でも人一倍暑がりな次男は、教室では日常的に半袖になっていたらしい。
折しもインフルエンザが流行っていた時分。私の薄いジャンパーをひっかけただけの姿で家まで帰ったけれど、よく罹らなかったと思う。
もっとも、そんな時に罹られたらものすごく困るけども。


自宅に戻る前、実家へ立ち寄った。
築40年の自宅、もしかしたらどこか潰れていたりするかもと思っていたけれど、ダメージは築8年の我が家よりもむしろ少なかったようだ。
家を建てる時、基礎に大きな石をたくさん入れたと言っていたので、案外丈夫なのかも知れない。
それでも家の中には物が散乱していたし、まだまだ強い余震が続いていたため、庭にみんなで固まっていた。
父は車のエンジンをかけ、近所にも聞こえるくらいの大音量でラジオをかけていた。
そこで初めて、大津波警報が出されていることを知る。
この時点ではまだ携帯は生きていたので、妹や旦那、旦那の実家と連絡を取った。
旦那は東京の地下鉄の中で被災、最寄駅の有楽町まで電車が動いたので、とりあえず有楽町から歩いて東京駅へ向かうとのこと。
妹は勤務先のファミレスの厨房にいる時だったから心配したけれど、何とか怪我もなく無事だったようだ。

背中の痛みは相変わらず激しい。吐き気もしてきたけれど、この状況では病院にも行けないので、とにかく少しでも楽になるように呼吸を整える。
実家の庭には30分ほどいたが、自宅の様子も気になるので、子供たちに支えられながら帰宅した。


子供たちを迎えに出る時は気が動転していたので、家の中の様子を改めて見てショックを受けた。
下駄箱の上のクロスは波打ったように破け、収納していたものが落ちて散乱していた。重いウィンドーウォッシャー液も落ちていたので、地震の最中に玄関から逃げようとしたら頭に直撃していたかも知れない。
リビングではありとあらゆる家具が移動して、パソコンが落ちかかっていた。買ったばかりのものだったから、落ちなくて本当に良かったと安堵。
テレビは耐震マットのおかげで、食器棚は突っ張り棒のおかげで無事。食器は中で5~6個割れただけで済んだ。
キッチンやタンスの引き出しはことごとく引っ張り出され、まるで泥棒に入られた家のよう。
3月の日暮れは早いので、とにかく早く生活ができるようにしなければならない。
しかしその時、私の吐き気はピークに達していた。

そんな情けない私を見て、子供たちは洗面器を持ってきた。
「母ちゃん、俺たちが片付けるから、安心して吐いてていいからね。」
「俺たち、やるときゃやるよ!だって父ちゃんいない間、俺たちが父ちゃんの代わりだもん。任せてよ。」

・・・なんと頼もしい言葉だろう。
子供だ子供だと思っていたけれど、いつの間にかこんなに頼もしく成長していたなんて・・・!

私はその言葉に甘えて、少しの間洗面器と仲良くしていた。
子供たちはスリッパを履き、箒とちりとりとゴミ袋を持って、復旧作業に取りかかった。


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3月11日(震災当日)①

その日は午後から、ビデオカメラで撮った子供たちの小さい頃のテープをDVDにダビングする作業をしていたから、テレビは外部入力になっていた。

午後2時46分。最初はいつもの地震(震災1か月程前から、地震が頻発していた。3月9日のお昼にも震度5弱の地震があった。東日本大震災の前震とみられる。)と変わらない揺れだったから、どうせすぐおさまるだろうと思って動かなかったのだが、揺れはおさまるどころか次第に激しくなっていく。そこでようやく、物が倒れてこない場所に移ろうと思った。
もし普通にテレビをつけていたなら全く違う行動をとっていただろう。
携帯電話にも緊急地震速報の機能はついていない。

しかし、こういう尋常じゃない事態が起きた時は人間の判断力も普通じゃなくなるもので、気が付いたら何も落ちてくるものがないはずのダイニングテーブルの下にもぐっていた。
そこから見える家の中の風景はまるで信じがたいもので、突っ張り棒で地震対策を施した食器棚以外は、ありとあらゆる家具が移動している。
落ちて壊れたら困るものをテーブルから出て支えようとした。
でも近くの加湿器を床に降ろすのが精いっぱい。あまりの激しい揺れに立っていられないのだから。

ふと、揺れが小さくなった。
いったい何が起きたのかよくわからないまま、飛び出した水槽の水でびしょ濡れになったズボンを取りかえに二階に上がろうとしたその時、さっきよりもさらに長く激しい揺れが!
再びもぐっても意味のないテーブルの下にもぐりこんだ。
もしかしたら、世界の終りが来たのかも知れないと思った・・・。

揺れがおさまるまで、ものすごく長い時間がかかったような気がする。
実際は5分くらい(普通の地震に比べたらとんでもなく長い時間だが)だったけれど、自分の感覚ではもっともっと長かった。
その間、心配してるに違いない旦那に無事メールを送り、ひたすら子供たちの無事を祈り続けた・・・。
あまりの恐怖に、涙は出ない。


ようやく地震がおさまり、学校からの連絡を待とうと思ったが、こういう時は回線が混んで連絡は遅れると思い、迎えに出ることに。
途中、うちの様子を見ようと道路に出てきた父と会い、実家の無事は確認。
近所に住む、長男の同級生のお母さんとも会ったので、一緒に小学校へ向かった。

外の景色は、今の地震がどれだけ凄まじかったかを物語っていた。
電柱は傾き、道路はあちこち割れている。
マンホールが20センチも飛び出し、電線は切れて垂れ下がっていた。
落ちた瓦屋根が散乱し、塀が割れている。
信号が死んでしまった県道は混乱しており、歩道橋も危なくて使えないため、県道を挟んで向かいの小学校へは「見守り隊」のおじさんたちが誘導してくれた。

その時、私はどうしようもなく具合が悪かった。
あまりのショックで急激に血圧が上がったのか、背中が激しく痛んで息が苦しかった。
もしかしたら、このまま死んでしまうのかと思ったほど・・・・。
それでも子供たちの顔を見るまでは気力で歩いた。


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震災から5か月

震災から5か月が過ぎました。

私の住む町は内陸部なので、ところどころ屋根にブルーシートがかかっていたり、道路がボコボコだったりする他はすっかり日常が戻ってきましたが、津波の被害を受けたところはまだまだこれからです。
旦那の実家の近くは平野部なので瓦礫がだいぶ片付きましたが、それでも海からだいぶ離れた田んぼや道路沿いには、まだ漁船や車が転がったままです。
一日も早い復興を願ってやみません。

原発事故は、最近ではメディアではあまり報道されなくなりました。本当はまだまだ油断ならない状態なのに、意図的に情報を出さないようにしているんですね。
そのため平和ボケしてしまった日本人からは、次第に危機感が薄れていっているような気がします。
空間線量はここ2か月ほどほとんど変わっていませんし、これから穀物の収穫期を迎え、主食がどのくらい汚染されているかもわからない状態だというのに・・・。
本当に、<天災にかこつけた>人災を起こしておいて反省の色もない東電、国民の健康よりも補償額を極力少なくしようと一生懸命な政府、圧力が怖いのかお金をもらっているのか知らないけれど真実をなかなか報道したがらないメディア・・・・これらには失望と怒りしか感じません。
原発被害者に対する、誰が見たって理不尽な対応をどうして放っておくのでしょう。
・・・我が家は先日、子供たちのがん保険に加入しました。

私は普段日記などつけたことがないのですが、震災から5日間は珍しく全部記録をつけていました。
先日このノートを震災以来引っ張り出してきたので、そこに書いていなかった行動の記録もあわせて(そのうち宮城県南の住民にも「被曝者手帳」が配られるかも知れないから)ブログに書き留めておこうと思います。

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雀の赤ちゃん


妹が自宅の前で拾った雀の赤ちゃんです。

本当は落ちてるの見ても、人間は手を出さない方がいいのですが、妹は知らなかったようで、烏に食べられるのを心配して保護。
でも自分ちはアレルギーの子供がいるから、私に飼ってくれ…と。

一度拾ってしまった赤ちゃんは、元の落ちていた場所に返しても親が育児放棄してしまう可能性があるため、うちにやってきました。

すり餌を買ってきてお湯で練り、割り箸で食べさせてます。
親鳥にするように自分から餌をねだるわけではないので、指でクチバシを開け、すかさず餌を投入。
さっきまでピーピー鳴いてましたが、お腹がいっぱいになったようで、いまは大人しく眠かけなぞしていますよ。
可愛い~~♪

雀の赤ちゃんの飼育は難しいから、ちゃんと育つのかどうかはわかりませんが、縁あってやってきた命ですから、精一杯お世話したいと思います。

……あ、でも来月温泉じゃん!!
どうしよう。


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ひさしぶりだぁ~

一言つぶやきって結構便利なので、ついブログの方をお留守にしてしまいました。

つぶやきって言っても、もう最近はウソつき東電とかダメダメ政府とか、憎ったらしい放射能のこととか、そんな愚痴っぽいつぶやきばかりになってましたが。

はっきり言って、ここまで政府に失望したのは初めてです。
党同士の争いに熱心で、国民とくに被災地のことなんか全然考えてない。
被災地と同程度のダメージが首都圏にあったなら、もっと真剣に復興のことを考えるんでしょうけど、所詮東北なんて彼らにとっては復興するがしまいが、人のあまり住んでない田舎に変わりはないってとこなんでしょうね。
全国からの支援や温かい励ましがある反面、先頭に立って復興に導いていかなければならない政治家がこれじゃあ、一丸となって頑張っている国民の足を引っ張っているようなもんですよ。

そして未だに放射能ダダ漏れの原発!!

「ただちに健康に影響を及ぼすものではございません」
・・・この言葉を信じて、どれだけ多くの福島の子供たちが被曝したことか。
ツイッターで福島に住むお母さんもフォローしてますが、本当に切実です。胸のえぐられるような、いたたまれない思いで毎日を過ごしている。
宮城南部に住む私たちだってそうです。うちは念のため、震災から3週間程度はなるべく子供たちを外に出さなかったけれど、買い物や給水の長い行列に小さな子供もたくさん並んでいました。マスクもせずに。その時子供を連れていたお母さんは、今とても後悔しています。
後から知ったことですが、このへんも爆発の後は異常なほど線量が高かったのです。政府・県もサーベイメータで計測してわかっていたのに、私たちは何も教えられませんでした。ラジオでも新聞でも、放射線量のことはこれっぽっちも触れていなかったんですよ。当時県は「震災で機械が壊れて計測できない」などと誤魔化してましたが、きっと政府からの規制がかかったんでしょうね。
後から「実はこうだった」と知らされても、後の祭り。犯罪にも匹敵する、大変恐ろしいことです。

「ただちに私に責任が及ぶものではございません。健康被害が出る頃には、私は引退しております。」
そういうことですか?政府のお偉方。
まずは4年後、福島の子供たちにどういう変化が現れてくるのか、しっかりその目で見ることですね。
そして自分たちの対策が間違いだらけだったこと、ウソをついて国民を騙したことを、一人ひとりに詫びて回ってください。


余震はだいぶ少なくなってきたので、揺れるたびに原発のことを心配するようなことはなくなったけれど、代わりに「いかに家の中の線量を下げられるか」「いかに内部被曝をさせないようにするか」で毎日頭がいっぱいです。
多分、福島ではなくどこか遠くの原発で事故が起きて自分に直接の被害が及ばなければわからないことだと思うのですが、はっきり言ってかなり恐怖です。
仮に原発が今すぐに収束したとしても、バラまかれたセシウムの半減期は30年。
大規模な除染をしない限り、放射線を扱う仕事をしている人でも浴びないような線量を、この先何年も毎日浴びるわけです。
自分はもう人生の半分を生きたからいいとしても、子供の体に何かあったら・・・と思うと恐ろしい。
ここは福島に比べればずっといい方で、福島から避難されてくる方も結構いるのですが、スーパーでは汚染地域の野菜が大半を占めているし、県も町も除染や学校給食の安全に対してあまり積極的ではありません(知事は女川原発動かしたい人ですから・・・)。
自分たちでできることは積極的にやっていくけれど、でもそれには限界がありますよね。
どうしたら子供をより安全に育てられるのか、どうしたら腰の重たい行政を動かせるのか、汚染地域のお母さんたちはみんな頭を悩ませています。
私もストレスたまりまくり・・・
旦那から見ると、軽い鬱状態にも見えるそうな。
・・・ん、確かにここんとこあんまり心が元気じゃないかもな。

でも体は一応元気です。動かないことには除染もできないし。結構いい運動にはなってますよ

さて、一度汗も引っ込んだことだし、これからまた家の除染作業再開です!!

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